昭和四十七年九月二十九日 朝の御理解
X御理解第六十八節 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓をあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」

 神様が氏子の願いを聞き届けて下さろうとする体勢と申しますか、そういう姿勢で私共に話かけよびかけておられる。それにはどうでも、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと仰せられる、のですからその身に徳を受けなければ、神様が下さろうとするおかげを受ける事が出来んのです。私共が願うておるおかげは、例えば辛抱せんでも、時々参って来てでも、いや初めて参って来てお願いしてでも、おかげを受けます。私共の願いがかなえられるという事なら。けれども神様が下さろうとするおかげ。しかもそのおかげを、下さる事によって、神様のお喜びとされる、おかげを下さって神様自身も、お喜びになる、喜んで下さる。そういうおかげを受けさせたい。そういうおかげをやりたい。
 そういう神様の願いがです。その為にはこの六十八節のところのような信心を、本気で身に付けてくれよと、いう事なのです。本当にね、神様が下さろうとするそのおかげを頂き止めた時、もう本当に神様が、大変な感動、神様が感激いっぱいで、おられるものを私は感じます。私は昨夜の御祈念の時、昨日のお道の新聞が参っておりましたのを見せて頂いておりましたら、東京の畑徳三郎先生の東京布教の初めの頃が記事に乗っておりました。まあ東京の開祖と言うてもいいでしょう。九州の開祖が小倉の桂先生なら、大阪の開祖が近藤藤守先生。東京の開祖はやはり、畑徳三郎先生でおありになった。
 大変な御修行でおありになられたようですねえ。布教に出て間もなく、いわゆる畑徳三郎先生が、お若い、元気いっぱいの信心修行がお出来になられておる頃の事でございましょう。ある日天皇陛下の侍従をしておられるところの奥様が参って見えた。そこの女中さんがたまたま金光様の御信心をする人であって、その女中から聞いたと言うて参って来なさった。それはどういう事かと言うと、家に飼ってある犬です。チンと書いてある。小さい犬の事でしょうねえ。そのチンがね、魚を食べておって、骨を喉に立ててしまった。どうしても出来んから、奥様あの、最近金光様という神様が見えておられて大変あらたかという事ですから、一遍お参りしたらどうですかと勧められて参って来た。
 そういうような事から御神縁を頂かれてです。熱心に信心なさるようになり、自分の方の奥の一間を神様の部屋にさせて頂いて、立派に奉斎をされるという程しに、熱心になられた。そういうお祭りをなさるので、お祭りを仕えられる事になった。普通、ああいうお家は、よっぽどの偉い方が見えなければ、正門から入るのは、‥‥。木戸口から入るというのが普通です。けれども正門を開いてのお迎えをされたと。御主人なんかでも、やはり天皇陛下の御用でもされる方ですから、大変出来たお方だったらしい。お祭りも済んで山海の珍味とおもわれるような御直会を差し上げて、そして帰られる時にも、もう門は閉めてあったけれども、それをわざわざ大門を開けて、それからお送りをされたと。
 その時の引出物として布団を一かさね送っておられます。その事を書いてあるところにです。畑徳三郎先生は、その布団のお供えを頂かれた日から、布団を着られるようになったという、記事。そこのところ迄読ませて頂いたら、もう感動がやまんのです。もう震うごたる感動です。それでその事を皆さんに聞いて頂いたんですけれども、聞いて頂きながら、もう声が震えるごと感動致しました。これはどうも私の感動じゃなかりそうですねえ。その時に、例えばその偉い方を通して畑徳三郎先生に布団を送られた時、その布団を着てやすまれる事の出来れる畑徳三郎先生になられた時に、神様の感動がこのようなものではなかったろうかと私は思うた。
 それは昔の先生方は随分布団を着られない。私の方の栄四郎も、もう永年布団着らんで毛布一枚でやすみます。やっぱそういう修行をしてる訳ですよ。兎に角神様がぬくぬくとした布団の中にやすませたい、そういうおかげもやりたい。それを例えば、畑先生に送られた時に、それを受けられた時の畑徳三郎先生の喜びはさる事ながらです。天地の親神様がそれを着てやすんでくれと言うて、そのおかげを下さる事の出来た時です。神様は、丁度ゆうべ私が感動したような感動をもってお喜びになったんだと思うんですねえ。願わん頼まん、とても自分は布団ども着る資格はない、というようなところから、そういう修行なさったんでしょう。
 私はその話をさせて頂きながら、私自身の本当に布一寸買いません。私共夫婦は、‥‥下駄一足買いません。米一粒買いません。もう風呂などは一生入ろうとは思いません。もう朝晩が水行でございましたから。ところがタオルのお供えが次々とある。次には石鹸なんかのお供えが次々とある。おかしな事だなと思いよったら、最後には風呂桶のお供えが来ました。それを神様にお供えさせて頂いた時にです。一生風呂など入ろうとは思わんと、言よるけれども。今日から風呂に入らせて頂く事を神様が許された時です。私は風呂の縁にしがみついて泣いた事を覚えております。
 もう有難うして有難うして、どうしたならば風呂に入られるじゃろうか。神様は、本当に、お風呂に入る時皆さんも、ああ極楽極楽と言うようにです。そういう極楽な思いもさせてやりたいのが親心。そういうおかげを下さった時の神様のお心の状態というものはです。おかげを下さって神様も感動しておられる、という事です。布一寸買いませんという、これは家内と私が、もう二十何年間続けさせて頂いておるのですけれども、最近ではそれこそ勿体ない、普段にこういうのを着せて頂いておる、というようなです、おかげを頂いておる。タンスにはいっぱい取り替え引き替え着せて頂くという、おかげを頂いておる。
 だあれも頼んでから着物のお供えしてくれなんてん、言うた事は一遍もない。もう家内なんか最近はもう、衣類だけではない、もう指輪とかいろんな、ああいう宝石類迄お供えを頂くようにおかげを頂いておる。神様がそういうおかげを下さる時にです。神様は私共が喜ぶ位の事じゃない、神様が感動しながら喜びながら、下さる。今日の御理解にも、よう辛抱した辛抱しぬいた。辛抱の徳を身に受けてくれたという事によってです。神様が、限りないおかげを下さる事が出来るようになった事を、神様が喜びとされるのです。雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならん。
 成程、お参りの時に、もう本当にいよいよかえって、元気な心、お参りが出来ないといったような事情の時もある。そういう時ほど、かえって大事に、そこをしていくといったような生き方の中にです。信心辛抱の徳と言うか、力を受ける事が出来るのであります。だからそこんところを辛抱しぬいて、辛抱の徳を受けてくれよと、その徳を受けた時にです。神様が限りない、おかげを下さる事が出来る。結局は神様のお喜びなんです。成り行きを大事にしていくとか、御事柄として受けていくとかというけれども。この成り行きだけは困ったものである。この事だけは御事柄としては受けられない。何故受けられないかと、力がないから受けられないのです。
 力があればどのような事でも成り行き、その時点を、合掌して受けてゆけれるのであり、どういう事が起って参りましてもです、力があればそれを平気で又は、有難く受ける事が出来る。御事柄御事柄と最近言われる。その御事柄とてもです。受けられる事もあれば受けられない事もあるではです。昨日の御理解から言うと、真とは本当な事だと。その本当な事をです。やる気でやれば、と昨日の御理解。その本当な事をです。やる気でやれば、やれるんだという、そのやる気が生まれてこないです。力がない時には、‥‥。
 ですから御事柄として、本当に全ての事を御事柄として、御の字をつけて、頂こう。神様が私に下さるもの。それは雨の時もあろう風の時もあろう。これが人生の雨風じやろうかと、お互い人生航路を、辿らせて頂く時です。本当にこれが人生の雨だろうか風だろうか、という時がありますけれども。それを御事柄として受けるという事がです。信心辛抱の徳を受ける事。受けられる事だけは受ける。自分が調子のよか時だけは、有難い。けれども自分の心の調子が悪い時には、受けられん、受けきらない、力がないからです。
 ですから御事柄として、受けさせて頂こうという、言うならばやる気にならせて頂いたらです。畑徳三郎先生の場合にはです。まだそれだけじゃなかったでしょう。まだいろいろと御修行がおありになった事でしょう。とてもとても、自分という者を見た時にです。とてもぬくぬくと、布団ども着てやすめれる自分じゃない。私共もそうでした。今日は椛目の篠原さんがお参りになっておられますが、すぐ裏でした。風呂が焚けませんでしたから、やはり裏から風呂が沸くと、大坪さんお風呂入り来なさい、とおらんで頂きます。それで家族中の者がお風呂を頂く。所謂もらい風呂です。
 そういう時代がどの位続いたか、そん時に、私は思うた。本当に毎晩、例えば家族中の者にです。風呂にも入れられない位の自分がどうして、風呂に入られるかと思うたです。親やら子供達に十分の食べ物も与えきらんどいて、どうして三度三度のご飯を自分が頂く事が出来ようかと、思うところから、一椀のお粥食修行に入らせて頂いた。とてもこの親にいつ迄も、もらい風呂どもさせよってです。とても自分自身が、お風呂にども入る資格はないと。そこからお風呂を、もう一生風呂には入りません、と神様へ誓うた。
 そしたら神様がです。幾年かたってから、さっさとタオルが集まってくる石鹸が集まってくる。そして最後にはです。もうそれこそ、私は風呂桶のお供えを頂いたのは初めてでしたけれども。立派な新しい桶風呂ですね。それのお供えを頂いた。それを神様にお供えさせて頂いたら、神様が大変な感動であった。神様がおかげを下さる事が出来た時の私共の喜びじゃないです。神様の喜びなんです。それには自分という者を知って、分からしてもらって、とても着物ども買う、反物ども買う、資格があるはずがない、ところから、夏も冬もない一着の洋服で過ごさせて頂いた。
 そしていよいよ神様がです。そういう例えば辛抱、その辛抱するという事は、今の言葉で言うと、御事柄として、受ける力を頂く為の修行である。頂く為の修行である。今はどうですか、本当に、大きなお風呂に、さあもう一番風呂に、ちょっと捻ればお湯が出る、水出る。石鹸はもう最高の石鹸がちゃんとそこに置いてある。タオルも新しいのがちゃんと置いてある。それこそ本当に勿体ない。しかもお風呂には、今度また出来ますと、三つもお風呂が沸く。どのお風呂に入っても、誰あれも文句の言い手がない、程しにおかげを頂いておる。
 客殿の風呂なんかに入らせて頂くと、あの素晴らしいお庭を眺めさせて頂きながら、もう本当に、兎に角極楽のおかげを頂いておる。そういう頂いておる前に、普通の者が頂ききらんところを頂く稽古をしとるという事なんです。とても自分という者が分かった時に、風呂にども入る資格はないところからです。風呂には一生入らないという程しの思いをさせて頂いたけれどもです。神様がそういう贅沢な、例えばお風呂にでも下さる事の為に、そういう頂く力を作らして下さってあるという事になりましょう。
 私は信心というのは楽な信心では駄目だと思う。見易い信心でなからないかんと思う。信心は見易いものじゃが氏子から難しゅうする、と仰せられるが。いわゆる信心は見易いものにならなければいかんです。それを信心をしながら、楽な信心ばっかりしょうと思うところに、おかげが受けられないです。とても私だん朝参りは出来ん、と、そういう事でね、本当のおかげの頂ける筈はありません。だからその朝参りがです。見易う出来るおかげを頂いたらいいでしょうが。例えば吉井の熊谷さんなんか、椛目時代は草野の駅から、椛目まで歩いてでしたよ、毎朝。ここえ出来てから今はバスを利用される。
 しかも朝の御祈念に参って来、また夜の御祈念に参って来なさる。もう七十幾つのおばあさんですよ。もう信心とは難しいとかじゃなくてです。見易いだけではなく。もう嬉しゅうて楽しゅうてというものになっているのです。信心をやはり身に付ける事なんです。だから見易い信心。私は楽な信心では絶対おかげが受けられんです。それこそ今頃ある人の事で頂いたように、如何にも生き生きとした花がささっとったけれども。その花瓶が寝てしもうとる。楽しとる。水は零れてしもうて、花は枯れてしもうとる。そういう事になるです。
 楽な信心では駄目、見易い信心でなからにゃならん。だから信心の稽古というのは、信心が見易うなる事の為に、稽古をする。私に自動車の運転をせろと言うたって、それはちょいと難しい事だと思うのです。けれども自動車の運転免許を持ってる人に、運転しなさいと、そらちょいと難しかけんで私は駄目だとは言わんでしょう。それこそ眠り半分ででも運転が出来るでしょう。もう自分の身に付いてしまっているからです。運転技術というものが。信心もそうです。だから信心な難しい、難しいと言わずに、自分自身も本気でその運転技術を身に付けるところの稽古をさせて頂いてです、おかげを頂いたら、それこそ鼻歌まじりで、もう自分の体の一部として、自動車を動かす事が出来るように、信心もそこ迄の信心にならなければ駄目です。
 もう自分の体の一部が自動車であるように、もう神様と私が不離のもの離れていない。いわゆる神吾と共にあるところの実感の中にです。信心修行させて頂くのですから、よしそこに雨が降っても風が吹いても、神様と共の修行ですから、楽しい。信心は見易いものじゃとおっしゃる。だから信心を見易いと思えれるところ迄、信心を高めてゆかなければならん。その為に辛抱。雨が降るから、風が吹くから、これが人生の雨だろうか風だろうかと、いう時をです。大切にさせて頂いて、そこを辛抱させて頂く時に初めて、辛抱の徳が受けられる。
 そういう信心を何故神様が求め給うか、お互い。それこそ、ゆめにも思わないようなおかげを氏子に与えたいばっかりの一念が、このような御教えになって、私は御理解下さってあるんだと思うのです。だから言うなら神様はここのところを、神参りをするに、雨が降るから風が吹くから、と言っておられますけれども。もうどうぞ雨が降ったけんで風が吹いたけんで、へこたれてくれるなよ、という神様の切なる願いがこれには込められておると思うです。これは自然現象であるところの雨風だけではないぞと。人生に起きてくる、これが雨じゃろうか、風じゃろうか、というもの本当に、ここはもう辛抱が出来んというようなところもあろうけれども。その辛抱こそが、身に徳を受ける修行じゃから、辛抱しぬいてくれよという神の願いを、ここに聞くような思いが致します。
 有難そうに心経や大祓を上げても心に真がなければ神に嘘を言うも同然じゃ、と。信心者は沢山ありますけれども、神様に嘘を言うような、神様をペテンにかけるような信心、おかげを願う信心の人がありはしないかと思う。いよいよ真の事。真とは本当の事だと。その本当な事を神様は教えて下さる。その本当な事を、いよいよ本気でやる気でやらして頂くところからです。いわゆる力が受けられる。どういう力かと言うと今、合楽でそれをしぼって言うならば、全ての事を御事柄として受ける力を下さるのです。そういう頂き抜く力、そういう力、そういう受けものにです。神様が下さろうとするおかげを頂く事が出来る。
 その時には、もうそれこそ、私の喜びではない。神様自身も、もうそれこそ感動いっぱいで下さる。おかげでも神様に喜んで頂くようなおかげでなければならない事が分かります。ただ自分の我情が我欲が満たされるだけのおかげではいけません。限りなく神様が、おかげを下さる事の出来れる力、それを今日は、御事柄として受けなければならん事が分かっても、力がなからなければ受けられません。その御事柄として受ける力を頂く事の為に、雨が降るから風が吹くからというところを、えらいでしょう、けれどもえらいと思わずに、これこそ信心辛抱の徳を身に受けて、御事柄として受けられる力を今こそ頂いておる時だと思わせてもろうて、いよいよ本当の信心修行に励ませて頂かねばならんと思うですね。どうぞ。